2015年3月1日(紀水章生)

中部短歌二月号・田丸まひる第二歌集「硝子のボレット」より

二月号は「十首詠」ということで、ふだんとは違い同人・準同人・会員の区分に限らず題付きの十首を発表することができる。また選者の選を受けて掲載十首を残すことを考えれば、十首より多く作品を提出してもよい。その二月号、巻頭の「現実とテロ」と題された一連が目に飛び込んできた。その中から二首。

囚人の衣の色とふオレンジに包まれ砂漠に座す念ひはや /大塚寅彦
※ルビ … 衣=きぬ、包まれ=くるまれ

護るべきもの持つ者の尊厳のかたさのオレンジ刃もて断ちたり /大塚寅彦

言わずとしれたテロ組織による邦人殺害事件のことである。オレンジの服を着せられ殺害された後藤氏のこと。インターネット上に掲載され、その後、様々な機会に報道されたシーンが今もまだ脳裏にある。最初に事件が勃発したときには、こんなことがあるのかと本当に驚いた。中東の国での争いや事件は日常とは縁遠く、現実感の薄いままにぼんやりと流れていく感じのときが多い。しかしこの事件には、多くの人が何とか救出できないのかという思いとともに、自分が当事者である、あるいは当事者になり得るという感覚を呼び覚まされたのではないだろうか。こんな衝撃的な内容の映像がオブラートにくるまれない生のままで流れてきたのははじめてのことかもしれない。
オレンジの色はきれいで鮮やかな色であるが、テロ組織が世界にむけてインパクトを与え宣伝効果を上げるために使われた。この二首にはテロ組織による理不尽な行為への静かな批判。強い信念をもって活動を続け最後の時まで存在感を放っていた後藤氏への共感と支持があふれている。

つまびらかにはできないがパピルスに描く諷刺画の夜無尽 /菊池裕

ムスリムは豚を摂らない戒律の日没までは無口であった  /菊池裕

この二首にも今回のテロ事件とかかわる出来事を想起させられた。一首目、わたしもネット上でいくつかの諷刺画的な映像を見た。二首目、「戒律の日没までは無口」への気づきが実にシャープだ。直接的ではないが、起きたことをそれぞれの人間の脳裏に記録としてとどめる役割を果たすだろう。

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昨秋、書肆侃侃房より新鋭短歌シリーズ第2期として未来短歌会所属の田丸まひる氏の第二歌集「硝子のボレット」が刊行された。この歌集には美しく印象的な作品が多い。

美しい傘をいっぽん抜き取って空とふたりを遮断する夏

美しいシーンを美しく描いた歌。傘で空とひとの間を遮断すると言う。そして傘でしきられたとき、ささやかではあるがそこには確かなふたりだけのプライベート空間が生まれる。

カーテンを揺らす月光こいびとは冷たい床に打ち上げられて

月の光に照らされた静かな部屋の冷たい感触。この冷たさはそれまでの時間の熱さと対極にある冷たさでもある。月光がカーテンを揺らすはずはないのだが、そう感じられるのはそれまで揺れ続けた余韻なのだろう。結句の「打ち上げられて」からも、嵐の海の荒波に翻弄されるようなじかんが過ぎたことが想像できる。

こなぐすり、過呼吸、おくすりなど、他のひとの歌にはあまり出てこない言葉だろう。おそらく、これらは作者の生活に根差していて、感覚的にちかしいことばなのだ。

こなぐすり飲むときだけは少年の時代の顔を見せるのですね
そのスーツ脱げばあなたが鳥になるような気がして過呼吸の日々
どの夜の指揮者もわたし 寒い日はうすむらさきのおくすりを飲む

こういう言葉は暗いイメージと結びつきがちであるが、「少年の時代の顔」、「鳥になる」「どの夜の指揮者もわたし」等のフレーズによって、明るく広がりのある世界へと繋がれている。

さらに実生活で直面し、そこで出会った切実な叫びを封じた作品もある。

父親になってくれないひとなんか捨ててしまえと書く診断書
「いつまでも続く世界の眩暈から逃げ出す処方箋をください」
こいびとが三人いれば三倍のしあわせかしら に答えられない
コンサートに行きたい。だから死なないの。ちぎれてしまいそうなイヤホン

不条理な現実に対する作者の怒りとそれをどうにもできないことへの苛立ちが底流に流れており、それぞれが読み手に対しあなたはこの現実をどう思うのかと迫ってくる。

中にはもう少し柔らかく和んだかたちで描かれている場面もある。

病室のベッドを秘密基地にして恋の話をせがまれている
さびしさの水位がいくら限界をこえても笑顔をやめない子ども
母、長女、三女、主治医が女子会のように微笑む午後の診察

こういう作品を読んだときには読み手もほっとし、明日に向かう力を与えられる。
若々しい相聞の歌、強い情動が殻をつきとおして外を照らしているような印象の作品もある。

こおり水、水たまり、まりあ、アルジャーノン 言葉をぬぐい合うようなキス
ローソンのひかりの中で全身が導火線だと気づかれている
レトリック、できればたった一片の氷の弾丸に撃ち抜かれたい
愛してるどんな明日でも生き残るために硝子の弾丸を撃つ

激しさはいまを生きている実感。「全身が導火線」、「氷の弾丸に撃ち抜かれたい」「硝子の弾丸を撃つ」…火花を散らすようなこんな激しい言葉を発するとき、心のうちにある何かが弾けるのだろう。

またそういう情感と交互に一抹のさびしさも現れてくる。

昨日あなたのくちづけ受けた襟首もほんとも嘘も白衣にしまう
さびしさをめくってほしいかなしみをはがしてみたい上澄みだけ、でも
心などないのに(鳥は鳥かごに)(記憶は脳に)こころぼそいね
くるぶしに夏の枯葉がふれている受け入れ方を覚えるたびに

激しさとその対極にある感情との起伏。今を生きているというのはこういうことかと思わされる。おさめられている作品たちに揺さぶられながら、歌集の世界に引き込まれた

歌評(月2回更新)

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