2019年8月1日(吉村実紀恵)

結社誌「短歌」8月号より、まずは大塚代表の歌を。

ヒトラーを真似せし髭のまづ冷えて近衛臥したり極月の死に  大塚 寅彦

近衛がヒトラーに扮している仮装パーティーの写真を見た。顔を白塗りにして良くも悪くも「なり切っている」か「面白がっている」ように見える人たちのなかで、近衛はほとんど素顔のまま、コントみたいな付け髭とハーケンクロイツの腕章で、お仕着せの即席ヒトラーといった風情だった。誰かに扮するということは、その人物を理想とするか、もしくは揶揄したい気持ちがあるものだろうし、実際この写真は後々まで論議を呼んだという。しかし私には写真の近衛がヒトラーの仮装によって何かを表現したかったようには見えず、周りの人間に言われるがままそこに座っているだけのように見えた。

近衛文麿はメディアによってつくられた独裁者であった。日中戦争を長期化させ、三国同盟を締結して、太平洋戦争のきっかけをつくった。日中戦争においては事変不拡大を訴え早期収束を測ったものの、熱狂する民衆の期待と、自身の思いとのギャップが大きくなっていった。1945年12月、巣鴨プリズンに出頭する前夜、遺書をしたためて服毒自殺。揺れ動き続けた自画像の完結であった。

掲出歌の「極月」とは12月の異称だが、近衛が最期を迎えた夜に煌々と照る月を想わせる。死に顔を隈なく照らす月明かり、凍り付く「ヒトラーの髭」。シュールレアリスティックな歌の手法が近衛の顔から仮面を引き剥がし、その素顔に迫る。

「豚コレラ」発生と同時に決められしシステムにより生命を絶ちぬ  小林 聰子

東海地区を中心に豚コレラがまん延している。感染すると治療法がなく、死亡率が高いという。感染が確認されると、発生農場の豚は全頭殺処分が基本である。養豚農家にとっては死活問題。だがこの歌の問題提起は、人間の都合で動物が機械的に命を絶たれる今の社会システムにある。何万頭もの豚の屠殺には、電気ショックや薬品の注射が使われる。いくつかの地域では、豚を追い込み、獣医の補助をするために自衛隊員が災害派遣されたが、逃げ惑う子豚たちの断末魔の叫びを聞き続け、心を病む者も出たという。人間が決めたシステムの中で生かされ、生き方も死に方も選べない家畜動物たち。一方で人間でありながらそのシステムの一端を担わされ、現実を直視しきれず心を病む人たち。今の社会においては殺すより他に方法がないのだ。ならばこのむごい現実を直視し続け、死に際の苦しみを少しでも軽減させようとすることが現代を生きる人間の努めなのだろう。感情を排し事実だけを淡々と伝えたこの歌に、そんなことを考えた。

堤防に群れ舞ふ烏を見てをりぬ舞へない犬と飛べない吾と  松下 正子

面白い歌である。犬が舞えないとはどういうことか。5年間ほど能の舞の稽古をしていたことがある。能の舞はゆったりした旋回運動で、摺り足を使う。また舞は祈りであり、神に奉納するものである。人間は単なる身体運動を、芸術的な表現にまで高めることができるのである。
一方で人間も犬も空は飛べないが、ここでの「飛ぶ」は精神的な意味合いが強いと思われる。だから飛び跳ね、思いのままに生きる犬は、何かを踏み出せないでいる作者にとっては、「飛べる」存在なのだろう。飛ぶことも舞うこともできる象徴的な存在としての烏を眺めながら、不完全さを抱える生き物同士がいたわりあって生きる。その姿はこよなく優しい。
続いて、「塔」所属の山内頌子第二歌集『シロツメクサを探すだろうに』より。

戸をあけて玄関に光さし入れるイルカの影のような夫の靴
のんきだと言われることが温かく日を溜めている木のようだった

作者は夫の転勤に伴い、故郷の京都を離れて東京に暮らしている。どこまでも淡いトーンとやわらかな口語体で織りなされる日常詠に、読み進めるそばからそれら日常の景色がセピア色に包まれてゆくような感覚を覚える。そんな中、時おり出会う独特な比喩がセピア色の景に陰影を与える。光あるところに必ずできる影は、自由の象徴であるイルカの形をしていることもある。陽光を浴びるあたたかな木から地面に目を落とせば、そこには長く伸びた影が出来ている。そして私はその影に、作者のかなしみのようなものを感じずにいられなかったのである。
だが作者あとがきの次の文を読んだとき、彼女の歌にそこはかとなく漂うかなしみの正体がわかったような気がした。

「時間は流れてゆく。叶わなかったことを数えてかなしまず、叶ったことを数えてしばられまい、と思う。」

歌評(月2回更新)

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