2015年10月15日(雲嶋 聆)
先日、京都で行われたシンポジウムに行ってきた。「時代の危機に抵抗する短歌」というタイトルの三部構成のシンポジウム。「経済効率の良い言葉」(意図を早く的確に伝えられる言葉)が氾濫するなかで、どのように歌人として言葉を紡ぎ、また読んでいくか、という事が大切であるとの、黒瀬珂瀾氏の第三部の鼎談での発言が印象に残った。
さて、至らないところも多いかと思うが、私なりの言葉で、今月の短歌に向き合っていきたいと思う。
というわけで、まずは結社誌の9月号から。
夏木立 君のブラウス トンボ玉 青みがかったものは正しい(雪村遥)
全体にノスタルジックな雰囲気が漂っている連作だが、とりわけ、この一首に強い郷愁の感覚が詠みこまれているように感じられた。上の句で、ぽん、ぽん、ぽん、とそこはかとなく懐かしさを感じさせるキーワードを提示して見せ、下の句で「青みがかったものは正しい」と言い切る。必ずしも、上の句で挙げられた3つの物は「青みがかったもの」とは限らないはずだが、なんとなく、このように断言されてしまうと、不思議な説得力をもって、そうなのかなと思わされてしまう。どこかJポップ的な上の句と、きわめて現代短歌的な下の句の、繋がっているようないないような内容の微妙な距離感が魅力的だ。
虻に血を吸はるる蜂のおそろしく澄める複眼 瞳の浄土(米山徇矢)
「虻に血を吸はるる」という限定的な状況における蜂の複眼を捉えていて、微に分け入って行くような一首だが、この二句目までの状況設定が、三句目の「おそろしく」を導き出す序詞の役割を果たしているようにも感じられる。そうして生まれた「澄める複眼」という言葉が最後、「瞳の浄土」になる。無駄のない言葉の流れに魅力を感じた。
ラリックの玻璃の膚よりひとつぶの葡萄こぼれていのちを放つ(清水美織)
ラリックはガレと並ぶアールヌーヴォー期を代表する工芸家。ガラスで壺を製作していたラリック自身がいつの間にかガラス人形になってしまっていた、そんな19世紀末のワイルドやホフマン、ボードレールといった人々に通ずる幻想を掻き立てられる。三句目の「ひとつぶの」から麦ではなく「葡萄」をもってきたフェイントも心地よかった。「葡萄」という響きの持つ肉厚的な感じ、葡萄そのもののつややかな色や潰せば果汁が溢れ出す感じ、すべてが「いのちを放つ」という結句のイメージに結びつくように感じられた。
総合誌は「短歌研究」の10月号より。評論賞の発表号だったが、本会の鷺沢氏が候補作に選ばれていた。
虐殺はかく描かるるゴヤの場合その百二十年後のピカソの場合(三井修)
スペインを舞台にした連作「不発弾」より。ゴヤの描いた虐殺というのは「1808年5月3日、マドリード プリンシペ・ピオの丘での銃殺」だろうか。夜、銃殺刑に処せられようとしている男性を描いたゴヤの絵と、デフォルメされた身体の踊る色鮮やかなピカソの「ゲルニカ」との対比が、昔と今の戦争の様子や人々の心のありようを象徴しているように感じられた。現在の戦争は色で表すと、やはりどこか現実離れした極彩色をしているのかもしれない。