2020年7月1日(吉村実紀恵)
緊急事態宣言が明けて、すでに1か月が過ぎた。新型コロナウイルスによって社会は大きく変容し、中でも新しい働き方に注目が集まっている。政府が示した「新しい生活様式」への取り組みとして、多くの企業でコロナ収束後もテレワークを維持する動きが出ているようだ。
結社誌6月号より、
公園にベビーカー押す男居て在宅勤務の息抜きですと 井上 恒子
今までならこのお父さんは、仕事の息抜きと称して頻繁にタバコを吸っていたかもしれない。あるいは仕事の後、同僚と一杯やるのが常だったかもしれない。しかし在宅勤務の今は家族との時間が増え、仕事の合間にベビーカーを押している。「息抜きです」は、男性の照れ隠しにも聞こえる。図らずもコロナ禍によってもたらされた好ましい側面をとらえ、ほほえましい交流の一コマを描き出した。
接触を八割減らせば私は存在さえも消されてしまう 原 まゆみ
「新しい生活様式」の基本となるのがソーシャルディスタンスである。同時に示された「人との接触を8割減らす、10のポイント」を見て、何とも言えない気分になった。確かにそれはいのちを守る正義にあふれていた。しかし、ここまで生身の人間としての交流を無くして、本当の意味で生きていると言えるのだろうか。自己は他者との関係性によって存在する。この歌は事の本質を突き、私が感じた違和感を見事に代弁してくれていた。
止むことを知らぬ疫病(えやみ)の世の外に電線にハトならびて光る 杉本直規
進歩とう時代の流れに逆らいて生きてみたしと思う夕ぞら
感染症の拡大と自然破壊には密接な関係があるという。コロナは自然界の応急処置であり、自然を破壊し続けてきた人間のリセットボタンが押されたのだ、とも言われる。電線に並ぶハトは人間社会のパンデミックの外にいて、そこにはただ、かけがえのない生の煌めきがあるばかりだ。コロナは経済を停滞させた。代わりに、自然の美しさに立ち止まり、空を見上げ、自分とより深く繋がる時間をくれた。
発言に表裏をなすは見逃さぬ会社のためと枕をつける 西川 修
人員の〈整理〉はた〈再構築〉とすべきかキイを叩く手止める
作者はオイルショック時に勤務先の雇用再編を目の当たりにして、終身雇用制に疑問を感じたという。コロナショックで雇用情勢は急激に悪化し、失業率はリーマンショックを超えるとも予測されている。「会社のため」という枕をつけたリストラがこれから本格化しそうな向きもある。皮肉にも、テレワークによって生産性の低い社員があぶりだされ、リストラ候補になっているという。果たして「不条理」なのは疫病だろうか。この一連を読むと、不条理とは戦後推し進めてきた資本主義の内部に潜んでいて、時おり自然災害や疫病、金融危機などとかたちを変えて出現するのだと感じる。
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声 芭蕉
リーマンショックの起きた2008年、会社の研修で地域の販売店を訪問したことがあった。現場責任者とのミーティングの席で、ある業務について私が質問したときに彼の発したひと言が、そのあと頭から離れなくなった。彼はその業務に従事しているスタッフのことを、「あの人たちは何も生産しない人たちだから」とこともなげに言ったのだった。
本社へ戻る道すがら、まだそのことについて考えていた。「生産的である」とはどういうことか? 製品をつくり、サービスを提供し、より多くの対価を得ることに直接関わる人たちが生産的だというのなら、マニュアル業務を確実にこなす人も、結果的には生産性向上に寄与しているはず…。いやいや、そんな理屈以前に、会社のためにどれだけ多く「稼げる」人間かということが、その人の価値を測る当然のモノサシとなっている事実に、少なからずショックを受けた。
それは蝉の鳴き声が降りしきる暑い夏の夕方で、私は掲出の有名な芭蕉の一句を、切ない思いと共に反芻したのだった。
それから数年後、この出来事を芭蕉の句とともに思い出す機会があった。訪日観光客向けに日本の伝統文化体験を提供するプログラムにおいて、スペイン人男性の俳句体験を通訳サポートした時である。漱石や遠藤周作を愛読しているという彼は、芭蕉を読んでいる友人の影響で俳句にも興味を持つようになり、このプログラムに申し込んだという。
うだるような暑さのなか、ゲストと先生と一緒に、下町情緒あふれる谷中の商店街を歩いた。店先に揺れる風鈴、生ビールの大きなサーバーなど、目に留まったものについて気ままなおしゃべりを交わしつつ、茶室を備えた小さな一軒家に到着。2階にあがり、卓袱台を囲んで座ると、冷たい緑茶で喉をうるおした。
書家でもある先生の筆や和紙に関するお話、うちわに描かれた清涼感たっぷりの俳画をひととおり楽しんだあとは、いよいよ俳句の創作だ。ここに来るまでに目にしたものから俳句のテーマとなるアイテムをゲストにひとつ選んでもらい、場面設定をする。テーマと場面が決まったら、そこから導き出されるイメージや感情を作品のなかに落とし込んでいく。通常は、まずゲストに英語で一行詩をつくってもらい、それを先生が日本語の俳句にする、という手順を踏むらしいのだが、このゲストは俳句の基本的な構成を学ぶこと、そしてそこに反映される俳句の精神性を理解することに熱心な方だった。先生の言葉をていねいにノートに書き留め、時おり自分の意見や思いを交える。先生の導きに従い、瞑想するように目を閉じて、イメージの再現に忠実であろうとする。そんな二人のやり取りは、さながら禅問答の一場面を見ているようだった。
そうして選ばれた「南部風鈴」をテーマに、出来上がったのが次の一句
軒風鈴 古里おもふ 山河かな
1時間半のプログラムを終えての帰り道、「良い句ができた日は、1日良い気分になれますね」と先生が嬉しそうにおっしゃった。後日コーディネーター宛に、「大変良い内容だった。友人を連れてまた参加したい」とのメールが届いたとのことだった。そしてコーディネーターの方からは、「コミュニケーションではわからない、インターラクションというのでしょうか。地味なプログラムですが広げていきたいと思います」というメールをいただいた。
今日初めて会った者同士の人生が、俳句という濃密な空間の中で交差する。「より効率的に、より多くのお金を稼ぐ」というビジネスの基準からは外れているから、このプログラムは生産的とは言えないのだろう。だが、わずか17文字に無限の拡がりが秘められているように、汲めども尽きぬプログラムの可能性を目の当たりにして、私は豊かな気持ちになった。